アジアの女は目覚めてどこに行くのか?〜ポル・ポトの最初の妻キュー・ポナリの場合

 

Pol Pot's First Wife Dies

 

キュー・ポナリ  ポル・ポト

 

「ノラは家出してからどうなったか?」という魯迅の有名な講演(於 1923年北京女子高等師範学校)がある。「イプセンの『人形の家』のヒロイン=ノラは、家を出た後のたれ死にしたであろう。職能を持たないお嬢様育ちのノラが一人で生きられる世界は、無い。女性が自立するためには、社会を変えなくてはならない」という趣旨である。

 20世紀、アジアには沢山の社会を変えようとしたノラがいた。金子文子は朴烈とともに処刑され、秋瑾は断頭され、遺骸をさらされた。伊藤野枝は大杉栄と幼い甥とともに謀殺された。

まさに死屍累々である。

  20世紀のカンボジアにも、目覚めた女性がいた。ポル・ポトの最初の妻キュー・ポナリである。1922年にプノンペンで判事の娘として生まれ、カンボジアで女性初?フ高等学校入学者になり、フランスに留学して、カンボジア人初のバカロレア合格者となった。帰国後妹のキュー・チリトとともに婦人雑誌を創刊した。近代的・合理的な生活科学の紹介が、大変女性たちの好評を博したという。近代的教育から疎外されてきたカンボジア女性たちにとって、実生活上の合理的 な知識を知ることが、即「啓蒙」に繋がった。留学時代に知り合ったポル・ポトと1956年に結婚。ポル・ポトの正確な生年が不詳のためはっきりしないが、6,7歳ポナリが年上だった。いわゆる姉さん女房は、カンボジアではきわめて異例だという。その頃ポル・ポトは謀略的手段をも駆使してカンボジア共産党の 主導権を握ったが、シハヌークに弾圧され、地下に潜った。ポル・ポト、イエン・サリ、キュー・サムファンたちカンボジア共産党幹部は、そのほとんどがフランス留学組だった。仏教的社会主義を標榜していたシハヌークは、独立後のカンボジアの近代化の中核にすべく中産階級の優秀な子女を国費留学生としてフラン スに送った。が、フランス留学組はフランスで、インドシナ共産党に入党し、共産主義者になり、帰国後は密かに反政府運動を始めた。飼い犬に手を噛まれたシハヌークは、彼らのこと憎しみを込めてクメール・ルージュ(クメール人のくせにアカになってしまったやつら)と呼んだ。

 クメール・ルージュは、中国共産党の支援を受けながらジャングルでゲリラ活動を長く続け、1976年権力を握り、新国家民主カンプチアを樹立し、ポル・ポトは首相に、キュー・ポナリは女性同盟委員長に就任した。一般国民はポル・ポトの名前さえ知らされず「BROTHER NO.1」あるいは「オンカー(組織)」と呼ばされて崇拝を強要され、キュー・ポナリは「SISTER NO.1」呼ばれた。しかし、ポナリは60年代後半より精神を病み、表舞台に立つことはなかった。密かに中国に送られ、治療を受けてもいた。ここら辺は毛沢東が、2番目の妻 賀子珍 のモスクワ幽閉の顰みにならっているのかもしれない。

  民主カンプチアはベトナム軍の侵入によって崩壊し、ポル・ポト派は再びジャングルに潜った。ポル・ポトは若い女性と再婚し、娘も生まれた。イエン・サリ(ポナリの妹チリトの夫)、タ・モクらのクーデターにより1997年に失脚して幽閉され、1998年謎の死を遂げた。イエン・サリはパイリンで材木・宝石 利権を握り、タイ政府とも密かに提携して『地獄の黙示録』のカーツ大佐のような密林の王になった。キュー・ポナリは、ポル・ポトの再婚、娘の誕生、死も理解しないままイエン・サリ夫妻の庇護を受けて安楽に生活し、2003年にイエン・サリのプノンペンの豪邸でイエン・サリ夫妻、夫妻の息子に看取られつつガ ンのため亡くなった。

 

 中年の頃の写真は美しく聡明だったという若い頃の面影が少しは残っているが、晩年の写真は狂気と老衰が入り交じった無惨な容貌となっている。

  しかし、私はキュー・ポナリを「時代の犠牲者」だと思わない。彼女はなぜかベトナム人がポル・ポトを殺そうとしているという被害妄想を持ち、姉さん女房としてポル・ポトを守ろうという気持ちが強かったという。民主カンプチア末期ポル・ポトが、ベトナムに近いカンボジア東部のポル・ポト派幹部を

ベ トナムへの内通を理由に粛清したことがベトナム・カンボジア戦争、中越戦争のきっかけだったことにキュー・ポナリの妄想が影響を与えているかどうかは定かではないが、一連のカンボジアの悲劇の責任をクメール・ルージュの元女性最高幹部として負わなければならない。ベトナム系のイエン・サリに晩年庇護されて いたのも皮肉である。恥多き生が、恥多き死によって幕を閉じた、と言ったら辛辣すぎるだろうか。

 

                                     2006.12.18 更新分

 追記1
 金子文子は、所謂朴烈大逆事件で大審院で死刑判決を受けた後、「恩赦」によって「無期懲役」に減刑され、獄中で自死?しました。病死ともいわれていますが、死因不詳です。朴烈は、日本敗戦ののち釈放され韓国に帰国しましたが、朝鮮戦争の北側南進時に拉北され?(自主的越北かどうか不明)1974年に死亡しました。多くの越北者同様、その死の詳細は不明です。

 金子文子は、実父が認知はおろか出生届さえ拒否したため、無籍者として生まれ育ち、学籍さえ得られませんでした。教育関係者の個人的好意によってなんとか小学校に入学し、好成績だったにもかかわらず理不尽な扱いを受けることが多く、「反権力主義者」になりました。獄中までも無籍者の悲哀は続きました。獄死後の死体の法的引き取り人さえいないのです。親族は実際にはたくさんいたにもかかわらず。朴烈と獄中入籍したことにより、朴烈の兄が引き取り人になりました。獄中入籍によりや初めて法的親族を得たという悲惨な生涯でした。「無籍者」問題は現在でも解決していません。
 追記2
 イエン・サリは、タ・モクらの反ポル・ポトクーデター以前にポル・ポト派から独立していた様な気がします。ここら辺を曖昧な記憶で書いてすみません。この独立は、ポル・ポトの再婚によってイエン・サリがポル・ポトの義弟でなくなったことも関係している気がします。家族や宗教を表向き否定したクメール・ルージュは、前近代的な家族主義に依拠していたのでしょう。キュー・ポナリの葬儀は仏式で行われました。

 十三夜日記

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